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ソビエト連邦の強制収容所"Gulag"での生活を垣間見る、32枚の不穏な写真- All That's Interesting

 

(元記事: https://allthatsinteresting.com/soviet-gulag-photos )

※この記事は個人的に翻訳したものです。

 

 

ヨシフ・スターリンソビエト連邦を統治していた間、1400万人のもの人々がSoviet Gulag(以下グラグ:ソビエト連邦内務省強制収容所) で過酷な仕事を強制されその人生を終えました。

 

Soviet Gulag Prisons

Wikimedia Commons

 

歴史研究者の概算では1400万人の人々がグラグに強制収容されたと見られている。スターリンの時代以前は、人々の家の前にいる秘密警察がグラグに人々を送る準備を常にしていたためにたった一つの失言が最悪な結果を招きかねなかった。多くの強制労働キャンプの中の一つでは被収容者が死ぬまで働かせられていた。そのうちの囚人には政治家もいる。聴衆をかき集めソビエト統治に対し大々的な発言を行なっていたためである。その他の人々は犯罪や泥棒もしくはソビエト政府に対する不親切な発言によって捕らえられた。

さらに被収容者はソビエト連邦によって征服され従属している東欧諸国からも来ていた。犯罪者の家族や大学教授、そして人を寄せ集める力を持つであろう重要人物を労働キャンプに送り、彼らをその道から離れさせることでソビエト連邦機械的に彼らの文化を消し去っていった。

 

被収容者がどこからやって来ようと彼らの運命は同じだった。それは凍える気温の中、大したことない防護服を身に着け、食料も少ない遠隔地での重労働-これらの写真が彼らの物語を伝えている。

 

allthatsinteresting.com

 

 

グラグの歴史

 

ロシアでの強制収容所の歴史は長い。初期の刑事制度としての例はロシア帝国まで遡り、17世紀にツァーリ(tsar=東欧で使われていた君主の呼び方)が労働キャンプ"katorga"を組織したのが始まりとされる。

Katorgaは、人々の少なく数少ない町のあるシベリアまたは極東ロシアへ亡命しようして有罪判決を下された裁判の判決の期間のことだ。そこで囚人らは、誰も自ら手に取ることはできないような仕事 - ほとんどが未発達である地域のインフラに労力を注がねばならなかった。

 

しかしこれを大規模に導入し、グラグのシステムに変えたのはレーニン政権だった。十月革命(The 1917 October revolution)の余波によって共産党指導者達はイデオロギーの危険度とロシア周りにそれらが広がっている事は把握したものの、新しいイデオロギーが国家にとってどれだけ致命的であるかは知らなかったという。また "どこか別の場所、もしくはある地域において無給の労力を利用して利益を出し好景気に向かわせる"という新案に反対せざるを得ないことは判断していた。レーニンが指揮を取っている間に強制労働を用いて逃亡した労働者たちを共産主義の階級に入れることの道徳性と、その有効性の両方に関する質問があった。 これらの疑いは新しい労働キャンプの急増によって絶えることはなかったにもかかわらず、彼らは少しずつ労働キャンプの計画を進め続けた。

 

 

 

 スターリンが変えたグラグの形

 

Gulagという言葉は、"Glavnoe Upravlenie Lagerei, or, in English, Main Camp Administration"の頭文字から成り立つ。

二つの真実がスターリンがグラグを無慈悲な方向へと動かした。一つ目はソビエト連合が非分離を維持したことによってさらなる産業化を必要としたことである。

新しい労働キャンプの裏にある、経済的動機が今もなお議論されている。これらの経済成長は単純にグラグを発展させる計画の中で都合よく発生した利益であったと感じる歴史研究者もいるが、その一方で逮捕を促進し思想を統一するものだと思っている人もいる。ただ、ソビエト連邦の天然資源を採集することと大規模な建設計画を請け負うという新しい能力において、刑務所労働が重要な役割を果たしていることへの否定はほとんどない。

もう一方の職場での強制はスターリンの大粛清であろう。このスターリンの大粛清は実際に想像できるように、全ての形態の意義、反論を取り締まるものだった。スターリンとしては彼の力を統合することに試みていた為に、疑いは党の役員たちや、kulaksと呼ばれる豊かな農民、学者、そして当時の方向性に対して意義を唱えていた人たちに降りかかった。最も酷い粛清の期間では意義に関連づけられることは容易なことであり、男性や女性また幼児さえも容疑の範囲であった。2年の間に当時約75万人もの人々がその場で処刑され、100万人以上が死刑執行からは逃れたものの、グラグへと送られた。

 

 

 

グラグでの日常生活 

 

強制労働収容所では囚人らはかろうじて食は与えられるもの体調は残酷なものだった。囚人たちはネズミや野犬を捕まえていて、彼らは何か食べられる生き物ならなんでも見つけていたという話すら出てきた。

飢えている間にも彼らは骨の髄まで働き、厳しい労働をこなすために廃れた機器を日頃から使用していた。グラグのシステムは、高価な技術に頼る代わりに、問題に対して手作りのハンマーを持った百万人もの男たちに腕のみで対処させた。囚人たちは彼らが体を壊すまで働き、文字通り急に倒れて死ぬことも頻繁にあった。

労働者はMoscow-Volga間の運河であるthe White Sea-Baltic Canalと、the Kolyma Highwayの設備を含めた大規模な計画の下でも働いていた。たくさんの労働者が建設時に亡くなり、また彼らが彼らの骨でこの道路の基盤を作ったことで、今日ではこの高速道路は"Road of Bone(骨の道)"として知られている。

女性に対しても一切例外は作られず、その多くは彼女らの夫や父親の想像上の犯罪によるものであり、無罪にも関わらず投獄された。

 

 

グラグでの女性は

 

女性は男性から離れた兵舎のアパートに住まわされていたが、労働の間に性別を識別することはほとんど不可能であった。女性の囚人達は囚人と警備員の男達両方から頻繁に強姦と暴力を振るわれた。多くの人が実行した最も効果的な生存戦略は、安全の代わりに定期的な性的接待を求める男性との刑務所結婚であった。

もしも子供を持つ女性の場合、女性は自分で配給を得て子供に与えざるを得なかった。時々、1日に140グラムほどのパンのみしか配給がされない時もあった。しかし一部の女性の囚人達は、単に子供を持つ事が許可されていることに嬉しさを感じていることもあった。多くのグラグで生まれた子供達は遠く離れた孤児院へと送られた。子供達に関する書類はほとんど失われているか使い物にならないものが多く、いつの日か再開をすることはほとんど不可能だと言われている。

 

 

 

 

 

 

1953年のスターリンの死以降は毎年1000人以上もグラグに送り込んでいたような熱意は冷めていった。次に権力を持ったNikita Khrushchevはスターリンの政策を非難し、別の命令で軽犯罪と政治的発言によって捕らえられていた人たちを解放した。

グラグの門が最後に閉まる時までに何百万人もの人が亡くなった。一部の人は死ぬために彼ら自身で動き、他の人々は木々の中に引きずり込まれ、撃たれた。世界の人々がこの収容所で失われた命の正確な数を知ることは今後決してありそうもない。

スターリンの後継者達は穏やかではあったものの、被害は残されたままだった。知識人と文化人達が一掃され、人々は恐怖の中で生きることを学んだのだ。