Web Press 山の上 

個人英日翻訳アーカイブプロジェクトなど。

カールセンについてのエッセイ、抜粋&翻訳

[Western] Modernism, which over the course of less than forty years gradually yet rapidly abandoned artistic aspirations towards literal realism(現実主義) and depictive representation(描写), in favor of fragmentary abstraction and often crypticクリプティック conceptualism.

西洋的モダニズムは40年弱の時を経て、しかし急速に、文字通りの現実主義や描写表現などの芸術的願望を放棄し、断片的な抽象や奇妙なコンセプチュアルを支持するようになった。

 

 

Bataille attributes this accelerated evolution of Art – and its “ren[unciation] of the real world” – to a more general cultural need for “extreme states of being”, which he argues cultivate a healthy sense of “freedom”, both individually and collectively. In this sense, he formulates that the contemporary function of Art is to provide society with extra-ordinary experiences outside those of direct action, which lead to “extreme states of being” – of disorientation, potential revelation, possible epiphany and prospective redemption – now that religion no longer serves such purposes.

 

バタイユの貢献は芸術の発展を促進した。芸術が「現実世界を放棄する」こと。彼はこのような極限状態が普遍的な文化において欲されるよう、個人的にも集団的にも健全な感覚としての「自由」を育むような議論を巻き起こしている。そのような意味で、彼は現代の芸術の特性というのは直接的で極端な行為を伴って社会へ刺激を与えることである、という常識(公式)を作り上げようとしている。それによって、見当もつかないような状態や水面下での暴露、現実的な悟り、そして将来性のある救済を導く「極限状態」というものが成り立つ。現代において、宗教はこのような用途を達成することはできないだろう。

 

 

In 1932, the photographer Ansel Adams firmly declared, “In a strict sense photography can never be abstract, for the camera is incapable of synthetic integration.” Yet since the turn of the millennium, as digital technologies have advanced and almost entirely subsumed包括 the creation of photographic images at a blistering猛烈な pace, the camera (and its associated technologies; today image-oriented software such as Photoshop rather than the traditional darkroom) is now certainly more than capable of “synthetic integration”, and artists such as Carlsen are taking full creative advantage of such advancements.


1932年、アンセル・アダムスははっきりと、「厳密には写真というものは決して抽象的になることはできない。写真機は合成的統合が不可能だからだ」と宣言した。ミレニウム世代になってからもデジタルテクノロジーは進化し続けており、劇的な速さで写真の制作を全体的に網羅している。カールセンがデジタルの利点を幅広く活用しているように、写真機(暗室ではなくフォトショップなど、今日に写真に関わる技術)は現在、確実に「合成的統合」が可能だと言えるだろう。

 

 

Initially, Carlsen began his career as a photojournalist and crime-scene photographer, but then quickly turned away from using photography as both an act and a representation of “direct action”, instead building his artistic reputation by turning both the aesthetics and traditions of such “evidential” and “documentary”-oriented practice on their head through the use of seamless, digital photographic manipulation. In his debut body -of -work as an artist, WRONG (2008-–2010), Carlsen presented a series of freakishly異常に、意表を突く surreal, hallucinogenic and often disturbing black-and-white photographic scenes in which the “real world” has been transmogrified via Photoshop into an surreal hyper-reality, haunted by globular小球体、球状の monoliths, bug-eyed creatures, trans-species multi-headed monsters, crudely constructed wooden-legged cyborgs and more.

カールセンは犯罪写真のフォトジャーナリストとして写真のキャリアを開始したが、写真を用いた「直接的な表現」から身を引いた。その代わりに境界なく風通しの良い環境で、デジタル写真で美学と伝統的な「実証」や「ドキュメンタリー」を構成することとなった。彼が身体を使った作品「WRONG」でアーティストとしてデビューした。意表を突くような作品群はどれも不気味で、フォトショップを通して球体の物体や虫の目を持っているような生物、木でできた脚のサイボーグのイメージなどを生成し「現実世界」を超現実へ一変させる。それらは度々モノクロ写真の界隈を騒がせてきた。

 

 

 

www.asgercarlsen.com

 

2018年の夏、なにもかもが嫌だった。すでに大学にはあまり行かなくなっていて、バイト先が自分が社会と繋がっている唯一の居場所だった。多くて週に5日、朝2時ごろまで働くと、もちろん朝は起きれなくなる。その年の春に恋人と別れてからずっとそんな感じだった。別れて1週間は、から元気で動けた。ふと数週間前、あるいは数ヶ月前が懐かしくなった。

 

その時は相模原市に住んでいた。新宿から直行で行ける果てで、私は自宅に1人、家に篭り続ける。静かな街に、隣町から来た男たちの怒声がよく聞こえる、最悪な土地だった。早く、とにかくここを離れたいけど行くあてはなかった。

 

そういう時には勢いだけで航空券を取るのがいい。せっかくどこに行っても1人なのだからそれならより遠くへ行くべきだと当時すでに勘付いていた。だからアメリカに行く。確かあれは2回目の渡米だった。1回目でホームシックになったのを完全に忘れて、とにかく現実を有耶無耶にするために、一番安い航空券を選ぶ。乗り換えの数は出会いの数で、出会いの数は運命の数だ。

 

しかし、乗り換えの数はリスクと比例する。例えば飛行機に乗り遅れるとか。アメリカの中心、コロラド州デンバーという街で、時差を一時間見間違えて飛行機は出発してしまった。目標はアメリカ南部のアリゾナ州フェニックスなのだが、そこに向かう飛行機は翌日10時まで無いので待つしかない。空港のカウンターでおじいさんが親切に、無料で振替便の予約を承ってくれたのは嬉しかった。そのおまけにホテルを紹介してもらったのだが、名前を検索するとそのホテルは"ホームレス保護施設"と書いてあったので、なんだか悔しくて、そこには泊まらない事に決めた。

 

 

北アイルランドはどのようにUK最後の中絶非犯罪化にありついたのか - TIME

(元記事 : https://time.com/5634762/northern-ireland-abortion-law-impact/ )

 ※この記事は個人的に翻訳したものです、記事に沿って翻訳しているため、投稿時間と記事内の時系列は違うことをご了承ください。

 

 

 

Pro-choice supporters stage a demonstration in Parliament Square to campaign for women's reproductive rights, legalisation of abortion in Northern Ireland and its decriminalisation in the UK on 11 May, 2019 in London, England.

 

 

 

Sarah EwartはBelfastにある彼女の家で、UKの法律家たちが北アイルランドでの中絶の非犯罪化に対する最終的な投票を行うのを見た。中絶の非犯罪化に関するニュースは、彼女と150年以上に渡って中絶が違法とされてきた北アイルランドを困難に陥れてきた。北アイルランドは広く中絶が可能なUKの一部であるにも関わらず中絶に関する独自の法律を持つ。アイルランド共和国は昨年中絶を合法化したが、そこに暮らす女性たちは未だに中絶手術のプロセスを踏むために国境を超えることを強制されてきた。

 

6年前、彼女が23歳の時に彼女は胎児診断を受け彼女と彼女のパートナーは妊娠している子どもが子宮の外では生きていけないことを伝えられた。「私が診断の意味を一度理解してからというもの、私は娘を抱くことができないとわかっている状態での妊娠に立ち向かい続けることはできなかった。」と彼女はメールを通じて語る。続けて、妊娠を終わらせる決断をするにあたり、北アイルランドの中絶法に基づいて彼女の通う病院では手続きができないことを知り、ショックを受け、北アイルランドは世界で最も規制された地域であると悟ったのであった。

 

実際に北アイルランドでは中絶薬を購入することや中絶手術は犯罪行為であり、最大で終身刑を背負わされる。現在進行形で世間の注目を集めている件では、母親が15歳の娘のためにインターネットで中絶薬を購入しようと試みた犯罪も存在する。Belfast市裁判所で裁判を起こしているEwartのように、中絶を求める北アイルランド人女性と妊娠中の人々は、UK内の別の地域に渡り手術や手続きを強制されているのだ。政府の統計によれば2018年には1053人もの女性が手続きを求め国外へ渡航している。また直近の2017-2018年の統計によると、北アイルランド内で行われた手術はたった12回。「飛行機に乗ってロンドンに渡ることしか手段がない」とEwartは言う。

 

だが、今週になって変化が訪れた。6月24日、現在政府機関を持たない北アイルランドでの公共サービスの維持に向けてUKの議会が請求書を承諾したのだった。M.P.s Conor McGinnとStella Greasyは一つは同性婚を合法化することで、もう一つは中絶法を緩和するという二つの修正案を並べこれらの承諾を得ようとした。その週、請求書の文を読み上げ、M.P.sは政府の舵取りが欠落している北アイルランドの地域に暮らす女性と、妊娠している人たちの権利を守ることはウェストミンスターの責任であると抗議した。

北アイルランドは二つの宗教政党の理由で2年以上も政府機関を持っていない。つい昨年、UKの最高裁判所と差別の撤廃を要望する連合委員会は北アイルランドの中絶法は女性権利に反すると判断を下した。議会はこの請求書を承諾し法律を修正した。賛成者にとっては勝利の道であったものの、いつ北アイルランド女性が中絶にありつけるかは未だ不透明であることに変わりはない。

 

「これはとても意義のある変化であり、急激に中絶の権利が後退している同様の地域、特にその懸念のあるアメリカに対しては希望のメッセージとなるでしょう」アムネスティ北アイルランド国際キャンベーんのマネージャーであるGrainne Teggartは言う。「2019年に、こんな馬鹿馬鹿しい事に対して今も私たちは多くの手段を用いて戦っています。ですがついに私たちは女性の権利を尊重し、彼女たちに居場所と彼女たちそれぞれの体についての決断ができる法律を手に入れようとしているのです」

 

 

 

まだ問題を解決しなければならない事は残っている。中絶は10月22日より非犯罪化され、検察と現在向き合っている事件に終止符を打つことだ。しかしそれら北アイルランドでの中絶と、その施設やサービス周りの詳細な規制が承諾されるのは三月下旬になる。

中絶権利キャンペーン担当者にとっては、"どうやって"サービスを実行していくかに焦点を当てたことが勝利において重要なポイントになった。ロンドン・アイリッシュ中絶権利キャンペーンの主催者であるCara Sanquestは言う。「中絶犯罪化の道が再び現れる事はもう無いでしょう。今となっては私達の身体の健康を邪魔する大きな壁は取り除かれたのですから」

 

 

f:id:yamamotohana1999:20190726080421p:plain

Paul Faith —AFP via Getty Images

 

これからの今後数カ月が肝心である。「本当に安心できるのはそれが叶った時です」と続けて彼女は語る。「新しい制度が運用されるまで私たちはじっと耐えています」

ロンドンを拠点とする彼女の団体は無料かつ安全で、それぞれの地域から中絶を合法的に行うためにアイルランド島へアクセスを手配するキャンペーンや、アイルランドで中絶に関する国民投票に関する #HomeToVome キャンペーンを行った。その国民投票は国の中絶禁止法をひっくり返した66%という数字を出し、それ以来Sanquestはこの経験を深く考察している。「アイルランドでのこの政策が一筋縄ではいかないという事は知っています。アイルランドにある病院はまだ中絶関連の準備が全く無いままです」

 

北アイルランドの政治的な状況の与えるイメージで見かけは複雑に見えるかもしれない。地域の平和を持ち込んだ1998年のベルファスト合意により、共和党と組合員を結束させるための取り決めによって北アイルランドは統治されている。2017年1月、二つの政党である民主統一党共和党Sinn Feinの間で論争が起こり、そのせいで北アイルランドの未解決問題へと導いてしまった。もし政府が合意と10月21日の前までに機能を再開するならば、新しい法律を危険に曝す可能性がある。

民主統一党は現在UKで権力を持つ保守派政党との関係を保っており、反LGBT・反中絶の立場を取っている。週末を超えて民主統一党のリーダーであるArlene Fosterは、北アイルランドにおける中絶禁止法の緩和努力を「陰気」と発言し、さらにこの問題は北アイルランドでの問題に保っておくべきだと述べている。彼女はまた、北アイルランドの大半の人々が28週間までの中絶の合法化に賛成していることが信じられないと述べた。火曜日には、Sinn Feinは制限された中絶法の改正を含む仮の新しい法律を見て反論していたという。

 

ウェストミンスター北アイルランド国民の望まないことをしようと試みていると言う主張をする人々にとっては、実際にはこれらは支持されていない。手に入る全ての証拠が北アイルランドの国民が望んでいることを実証している」とTeggartは言います。2018年に北アイルランド国民の約65%が、中絶は犯罪にならないと考えていることを発表した。キャンペーン参加者は地方の政府議会が中絶法を廃止して欲しいと感じていたに関わらず自ら行動しなければならなかった。 

  

またSarah Ewartは彼女自身に大きな問題を抱えていた。しかし彼女は自身のトラウマの体験を公共の場で話すことを選び、Belfast市裁判所で北アイルランドでの厳しい中絶禁止法に挑み続け、ヨーロッパにおける人権の矛盾を解消することに力を注いでいる。彼女は9月に判決を受け取りその際に今までキャンペーン参加者たちがこの10年間で伝えてきたことが判決に反映され、望み通りの結果になることを願っている。

「法律が権利を脅かしていることついて、裁判所は私たちに同情してもらう必要があります」そう語る彼女は、今は安堵し10月21日までの日付を数え続けている。「過去の6年は私にとって苦しいものでした。私は物事を変えたり人助けをするために個人的な体験を話すべきではないと思っていたけれども、最終的には成功に繋がったのです。政治家と裁判所は私たちが法律が変わるまで決して諦めないということを認識する必要があるのです」

 

 

(元記事 : Why Northern Ireland Just Became the Last Part of the U.K. to Decriminalize Abortionhttps://time.com/5634762/northern-ireland-abortion-law-impact/

 

ソビエト連邦の強制収容所"Gulag"での生活を垣間見る、32枚の不穏な写真- All That's Interesting

 

(元記事: https://allthatsinteresting.com/soviet-gulag-photos )

※この記事は個人的に翻訳したものです。

 

 

ヨシフ・スターリンソビエト連邦を統治していた間、1400万人のもの人々がSoviet Gulag(以下グラグ:ソビエト連邦内務省強制収容所) で過酷な仕事を強制されその人生を終えました。

 

Soviet Gulag Prisons

Wikimedia Commons

 

歴史研究者の概算では1400万人の人々がグラグに強制収容されたと見られている。スターリンの時代以前は、人々の家の前にいる秘密警察がグラグに人々を送る準備を常にしていたためにたった一つの失言が最悪な結果を招きかねなかった。多くの強制労働キャンプの中の一つでは被収容者が死ぬまで働かせられていた。そのうちの囚人には政治家もいる。聴衆をかき集めソビエト統治に対し大々的な発言を行なっていたためである。その他の人々は犯罪や泥棒もしくはソビエト政府に対する不親切な発言によって捕らえられた。

さらに被収容者はソビエト連邦によって征服され従属している東欧諸国からも来ていた。犯罪者の家族や大学教授、そして人を寄せ集める力を持つであろう重要人物を労働キャンプに送り、彼らをその道から離れさせることでソビエト連邦機械的に彼らの文化を消し去っていった。

 

被収容者がどこからやって来ようと彼らの運命は同じだった。それは凍える気温の中、大したことない防護服を身に着け、食料も少ない遠隔地での重労働-これらの写真が彼らの物語を伝えている。

 

allthatsinteresting.com

 

 

グラグの歴史

 

ロシアでの強制収容所の歴史は長い。初期の刑事制度としての例はロシア帝国まで遡り、17世紀にツァーリ(tsar=東欧で使われていた君主の呼び方)が労働キャンプ"katorga"を組織したのが始まりとされる。

Katorgaは、人々の少なく数少ない町のあるシベリアまたは極東ロシアへ亡命しようして有罪判決を下された裁判の判決の期間のことだ。そこで囚人らは、誰も自ら手に取ることはできないような仕事 - ほとんどが未発達である地域のインフラに労力を注がねばならなかった。

 

しかしこれを大規模に導入し、グラグのシステムに変えたのはレーニン政権だった。十月革命(The 1917 October revolution)の余波によって共産党指導者達はイデオロギーの危険度とロシア周りにそれらが広がっている事は把握したものの、新しいイデオロギーが国家にとってどれだけ致命的であるかは知らなかったという。また "どこか別の場所、もしくはある地域において無給の労力を利用して利益を出し好景気に向かわせる"という新案に反対せざるを得ないことは判断していた。レーニンが指揮を取っている間に強制労働を用いて逃亡した労働者たちを共産主義の階級に入れることの道徳性と、その有効性の両方に関する質問があった。 これらの疑いは新しい労働キャンプの急増によって絶えることはなかったにもかかわらず、彼らは少しずつ労働キャンプの計画を進め続けた。

 

 

 

 スターリンが変えたグラグの形

 

Gulagという言葉は、"Glavnoe Upravlenie Lagerei, or, in English, Main Camp Administration"の頭文字から成り立つ。

二つの真実がスターリンがグラグを無慈悲な方向へと動かした。一つ目はソビエト連合が非分離を維持したことによってさらなる産業化を必要としたことである。

新しい労働キャンプの裏にある、経済的動機が今もなお議論されている。これらの経済成長は単純にグラグを発展させる計画の中で都合よく発生した利益であったと感じる歴史研究者もいるが、その一方で逮捕を促進し思想を統一するものだと思っている人もいる。ただ、ソビエト連邦の天然資源を採集することと大規模な建設計画を請け負うという新しい能力において、刑務所労働が重要な役割を果たしていることへの否定はほとんどない。

もう一方の職場での強制はスターリンの大粛清であろう。このスターリンの大粛清は実際に想像できるように、全ての形態の意義、反論を取り締まるものだった。スターリンとしては彼の力を統合することに試みていた為に、疑いは党の役員たちや、kulaksと呼ばれる豊かな農民、学者、そして当時の方向性に対して意義を唱えていた人たちに降りかかった。最も酷い粛清の期間では意義に関連づけられることは容易なことであり、男性や女性また幼児さえも容疑の範囲であった。2年の間に当時約75万人もの人々がその場で処刑され、100万人以上が死刑執行からは逃れたものの、グラグへと送られた。

 

 

 

グラグでの日常生活 

 

強制労働収容所では囚人らはかろうじて食は与えられるもの体調は残酷なものだった。囚人たちはネズミや野犬を捕まえていて、彼らは何か食べられる生き物ならなんでも見つけていたという話すら出てきた。

飢えている間にも彼らは骨の髄まで働き、厳しい労働をこなすために廃れた機器を日頃から使用していた。グラグのシステムは、高価な技術に頼る代わりに、問題に対して手作りのハンマーを持った百万人もの男たちに腕のみで対処させた。囚人たちは彼らが体を壊すまで働き、文字通り急に倒れて死ぬことも頻繁にあった。

労働者はMoscow-Volga間の運河であるthe White Sea-Baltic Canalと、the Kolyma Highwayの設備を含めた大規模な計画の下でも働いていた。たくさんの労働者が建設時に亡くなり、また彼らが彼らの骨でこの道路の基盤を作ったことで、今日ではこの高速道路は"Road of Bone(骨の道)"として知られている。

女性に対しても一切例外は作られず、その多くは彼女らの夫や父親の想像上の犯罪によるものであり、無罪にも関わらず投獄された。

 

 

グラグでの女性は

 

女性は男性から離れた兵舎のアパートに住まわされていたが、労働の間に性別を識別することはほとんど不可能であった。女性の囚人達は囚人と警備員の男達両方から頻繁に強姦と暴力を振るわれた。多くの人が実行した最も効果的な生存戦略は、安全の代わりに定期的な性的接待を求める男性との刑務所結婚であった。

もしも子供を持つ女性の場合、女性は自分で配給を得て子供に与えざるを得なかった。時々、1日に140グラムほどのパンのみしか配給がされない時もあった。しかし一部の女性の囚人達は、単に子供を持つ事が許可されていることに嬉しさを感じていることもあった。多くのグラグで生まれた子供達は遠く離れた孤児院へと送られた。子供達に関する書類はほとんど失われているか使い物にならないものが多く、いつの日か再開をすることはほとんど不可能だと言われている。

 

 

 

 

 

 

1953年のスターリンの死以降は毎年1000人以上もグラグに送り込んでいたような熱意は冷めていった。次に権力を持ったNikita Khrushchevはスターリンの政策を非難し、別の命令で軽犯罪と政治的発言によって捕らえられていた人たちを解放した。

グラグの門が最後に閉まる時までに何百万人もの人が亡くなった。一部の人は死ぬために彼ら自身で動き、他の人々は木々の中に引きずり込まれ、撃たれた。世界の人々がこの収容所で失われた命の正確な数を知ることは今後決してありそうもない。

スターリンの後継者達は穏やかではあったものの、被害は残されたままだった。知識人と文化人達が一掃され、人々は恐怖の中で生きることを学んだのだ。

 

 

 

 

 

 

米国における家族引き離しの歴史。終わらないトラウマはどう影響しているのか? - The Conversation

Immigrant children play inside the Catholic Charities RGV in Texas. AP Photo/David J. Phillip

 

 (元記事: https://theconversation.com/the-long-history-of-separating-families-in-the-us-and-how-the-trauma-lingers-98616)

June 26, 2018 6.42am EDT

※この記事は個人的に翻訳したものです、記事に沿って翻訳しているため、投稿時間と記事内の時系列は違うことをご了承ください。

 

 

ここ数週間の間で、不法移民に対してのトランプ政権の"ゼロ・トラレンス"政策によって約100組もの家族が引き離されている。報道においてこの政策は既に停止されたと言われているが、いつこれらの家族が再会できるのかは未だ不透明である。また、10代の子供達が保護施設に入れられる可能性があるというニュースや、引き離された子供が施設のシェルターを抜け出し行方不明になったニュースもある。

子供達が家族から引き離されるのはこれが初めての出来事ではない。2~3つ挙げるとすれば、奴隷としてやって来たアフリカ系アメリカ人や、涙の道を渡ったネイティブアメリカン、強制収容されている日系アメリカ人らにも排斥や隔離は行われていた。

積極的に児童保護調査に注力しており、子供達が彼らの親から引き離される排斥の不要性を検証している学者として、筆者はこのような政策の影響は、多くは元に戻るまでに生涯をかけて多くの時間がかかることを意識させられざるを得ない。

 

 

 

引き離された家族の歴史

 

奴隷制の時代の間、両親から引き離された子供達は日常的に人身売買されていた。奴隷の所有者に法的な制約は存在せず、また所有者が奴隷に見合う価値を定め、処分していた。

 

アンドリュージャクソン大統領がインディアンの移動を許可した後は州が認可した刑罰隔離政策が1800年代に存在していた。多くは10代20代のアメリカ先住民は強制的に家や共同体から引っ張り出され、特別に作られたという1マイル先の"インディアンテリトリー"に歩いて向かったが、旅の途中で1000人もの死者が出た。"涙の道 (Trail of Tears)"と名付けられている。それにもかかわらず政府はこの政策を進め、アメリカ先住民の人々は親から離れ寄宿学校で教育を受けるよう命じた。これはアメリカ先住民の家族を子供の距離を作るという手段であり、彼らはゆっくりと先住民の価値観から離れていった。学者は今、これを強制的な同化政策であると説明する。この政策は、先住民らの親が寄宿学校での教育を拒否する権利が与えられたインディアン児童福祉条約 (the Indian Child Welfare Act of 1978)が可決するまで施行された。

 

日系アメリカ人の強制収容もまたアメリカ政府の排他的な政策の一つだった。ルーズベルト大統領はアメリカ国民である日系人を強制的に排除しキャンプに閉じ込めた。子供達や赤ん坊でさえも彼らの親と共にキャンプへ配属された。

 

今日も行われているように、これらの隔離政策は否定的な面や長期的なトラウマを十分な考慮のないまま、頑固として守られ合理化されている。

 

 

長期的な影響

 

奴隷制の間に隔離された家族の影響に関する最近の調査では、世代を超えたトラウマに焦点を置いている。学者のJoy Degruy氏は彼女が世間に大きく影響を与えた著書"Post Traumatic Slave Syndorome"にて、今もなおアフリカ系アメリカ人の家族には歴史的な衝撃があると説明する。

複数の世代に渡るトラウマに関する調査に多くの時間を費やしてきた彼女は、これは「常識」であり、奴隷制に耐えた数百もの人々はこのような怒り、暴力や恥などの行いを現在の世代に至るまで伝えていると付け足した。

学者らはまた、アメリカ先住民の寄宿学校における影響についても調査した。彼らの発見には寄宿学校における虐待や、子供達のその後にどのような顕著なものがあったのかということが含まれていた。 子供の頃、彼らの多くは鬱病を患っていることが発見された。また調査は、寄宿学校での辛い幼年時代の経験は、大人になった後にもストレスを対処する時の困難に結び付けられている。

 

児童養護施設や里親制度において、学者は複数の居場所、子供達が暮らす場所から別の場所へ移動することによる精神的なダメージについて長期間の調査を行なっている。滞在場所が不安定な経験をもつ子供は彼らの親と離れた後、深いストレスや居場所を失った苦しみに悩まされる。

 

引き離しにおけるトラウマは身体的、精神的にも大きなダメージを大人になった後にも残す。これは本質的に、様々な手段によって子供達の健康な発達を妨げているということだ。

 

 

2018年の家族引き離し

 

もしも子供が愛され安全に感じ、適切な手段や対処を得ることができる子育てに良い環境で育った場合、幼年時代の不利な経験は実際よりかなり小さく見られてしまうかもしれない。

これらの過去の比較は私達を今日何が起こっているのかという問題に引き込んでくれる。トランプ大統領の発したこれ以上の引き離しを止めるよう命じたが、すでに始まってしまった傷を元に戻す、ということではない。

 

 

Children form a line, as undocumented immigrant families are released from detention in Texas. Loren Elliott/Reuters 

 

 

 

 

 (元記事: The long history of separating families in the US and how the trauma lingers

https://theconversation.com/the-long-history-of-separating-families-in-the-us-and-how-the-trauma-lingers-98616)